親鸞フォーラム
なんとなく、8月31日に第9回目を開催した親鸞フォーラムの開催日時とパネリストの方々をまとめてみた。
2009年3月21日 第1回親鸞フォーラム
「今、<人間>を見つめる」
コーディネーター:菅原伸郎
2009年6月20日 第2回親鸞フォーラム
「人間、罪を生きる-「死刑」と「裁判員制度」を考える-」
2010年2月14日 第3回親鸞フォーラム
「今、<人間>を見つめる。」
コーディネーター:武田定光
2010年9月12日 第4回親鸞フォーラム
「今、<人間>を見つめる。」
パネリスト:鳥越俊太郎、竹内整一、箕輪秀邦
コーディネーター:木越康
2011年2月6日 第5回親鸞フォーラム
「今、<人間>を見つめる」
コーディネーター:木越康
2012年4月22日 第6回親鸞フォーラム
基調講演:「親鸞いまを生きる-幸福の追求と苦悩する時代-」姜尚中
「今、<人間>を見つめる-悲しみのただ中から-」
コーディネーター:木越康
2012年9月9日 第7回親鸞フォーラム
「今、<ここ>で生きる-あなたの場所はどこですか-」
*一楽真がコーディネーターの可能性あり
2013年6月9日 第8回親鸞フォーラム
「震災×経済×仏教-私たちは今、何を問われているのか-」
コーディネーター:木越康
2014年8月31日 第9回親鸞フォーラム
「生×死×仏教―私たちに力をあたえるとき―」
コーディネーター:木越康
以上第9回目までのテーマと関わりのあった方々(敬称略)を記載した。
清沢満之と高木顕明
清沢満之さんと高木顕明さんは、ほぼ同時期に生きていたので、可能性はないとは言えないですよね。推測ということになりますが、清沢満之さんと高木顕明さんに接点があった、ということをお話されて(書かれて)いることは多いみたいですね。ご存知かもしれませんが、高木顕明さんとともに大逆事件で処罰された幸徳秋水さんがおられます。幸徳秋水さんは足尾銅山鉱毒事件の直訴状を田中正造さんからの依頼で執筆しました。この時期、幸徳秋水さんは、『万朝報』という新聞の記者でした。『万朝報』は、黒岩涙香さんが1892年に創刊したのが始まりです。この時は、発行所名は「朝報社」であったそうです。1897年には内村鑑三さんが英文欄主筆として『万朝報』の記者となりますが、1898年には退社します。内村鑑三さんは、退社後してすぐに『東京独立雑誌』を創刊します。ですが、1900年に再び内村鑑三さんが客員として『万朝報』に帰ってきます。1901年に内村鑑三さんが黒岩涙香(『万朝報』の創刊者)さんや幸徳秋水さんや堺利彦さんらと「理想団」を発足させます。「理想団」は社会問題を団員が協力して世論に訴えるという趣旨のもとに結成された団体である。しかし、内村鑑三は自己の内面を省察し聖書によって自己個人を改良するという立場であり、幸徳伝次郎や堺利彦や安部磯雄らの社会改良主張を立場と衝突し、「理想団」の運動は自然消滅していきます。1903年6月30日に内村鑑三さんが『万朝報』で「戦争廃止論」を執筆します。内村鑑三さんは、突然に廃止論を言い出したわけではなく、『聖書之研究』で日露非開戦、戦争絶対反対を主張したいたことが指摘されております。しかし、1903年10月に『万朝報』が非戦論から開戦論に方向転換したことをきっかけに内村鑑三さんが退社します。もちろん、幸徳秋水さんや堺利彦さんも退社します。1903年11月に幸徳秋水さんや堺利彦さんを中心として『平民新聞』を創刊します。この新聞では、亡くなって半年近くが過ぎておりますが、清沢満之さんの追弔文を掲載しております(1903年6月6日に清沢満之さんは亡くなられております)。
『精神界』噫是れ清沢満之氏の遺業也。多く俗界に知られずして逝きたる宗教界のこの一人傑が、いかに清冽なる噴泉を社会の一隅に遺して、人心洗滌の用を為さしむかを思い、吾人は常に此の雑誌に対して敬愛の念を絶たざる者なり。
『平民新聞』
このような文章が掲載されたことを考えると、幸徳秋水さんや堺利彦さんたちの立場(つまり、社会主義者、非戦論者の方々)から好意的に受け入れられていたように考えられます。また、幸徳秋水さんは、大逆事件の獄中で処刑を待っている中で「死生」という文章を書かれております。
不幸短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君の如く、餓死しても伯夷や杜少陵の如く、凍死しても深艸少将の如く、溺死しても佐久間艦長の如く、焚死しても快川国師の如く、震死しても藤田東湖の如くならば、不自然の死も却って感嘆すべきではない歟
「死生」
この文章の中で清沢満之さんの名前をあげております。この新聞の熱心な読者であり、幸徳秋水さんや堺利彦さんと交流があったのが高木顕明さんです。このようなところから、推測されますね。何か資料が見つかれば、面白いのですがね。
清沢満之さんと高木顕明さんは共に尾張国(愛知県)の出身であり、同じ真宗大谷派の僧侶です。清沢満之さんは、単なる学者、つまり学問だけをしていたのではなかったのです。もちろん、学問をすることは非常に大切なことでありますが、学問にとどまらず、非常に活動的であったということです。例えば、宗門の改革運動(白川党運動)をして、宗門の改革をしようと運動もしております。同じ真宗大谷派の宗門内でこのような活動をしていたのですから、高木顕明さんも清沢満之さんの名前ぐらいは最低でも知っていたと推測できると思います。
1910年から大逆事件により、高木顕明さんは逮捕されます。このことが雑誌『精神界』で触れられておりますが、逮捕者の中に大谷派の僧侶がいたという記述はないそうです(原文の確認はしておりません)。この頃は、清沢満之さんが亡くなっており、暁烏敏さんが編集の中心にいたと推測されます。
高木顕明さんは、新門の名で公表された御消息や南條文雄さんや暁烏敏さんの戦争へ加担するような発言や文書に対しても批判をしていっていたそうです。例えば、南條文雄さんに対してのものとしては、『余が社会主義』で
余は南條博士の死るは極楽ヤッツケロの演説を両三回も聞た。あれは敵害心を奮起したのであろーか。哀れの感じが起るではないか。
『余が社会主義』
と批判されております。高木顕明さんにとっては、「南無阿弥陀仏」は「戦争の掛け声」ではなく
詮ずる処ハ南無阿弥陀仏には、平等の救済の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ
『余が社会主義』
と言われます。
また、『余が社会主義』の中では、新門の名で公表された御消息で、宗祖の御消息を戦争に加担する意図で抜粋して用いていることに対しての批判もあります。
このような形で戦争反対をしていったのが高木顕明さんでした。まだまだ私も勉強不足で間違い等があるかとは思います。ご指摘いただければありがたいことと存じます。
主な参考書
山本伸裕『他力の思想』
加藤智見『いかにして「信」を得るか』
真宗大谷派における女性住職のことについて
ツイッターで小川寛大(OGAWA Kandai@grossherzigkeit)さんが「日本仏教にて尼僧さんの地位が目に見えて向上した契機は、戦争であった。多くの日本仏教は明治維新期から「国家への協力」を惜しまなかったので、日本軍には従軍僧がいたし、かつての欧州各国の侵略の先棒を担いだキリスト教宣教師よろしく、多くの坊さんが大陸に渡り、頭数が足りなくなったのである。」(https://twitter.com/grossherzigkeit/status/523756671550500864)という指摘をされている。これは、真宗大谷派において、事実であると考えて差し支えないように思う。以前もツイッターにて、「女性住職の道が開かれるまで」ということで連続ツイートしたことがあった。もう一度、宗派外の条約等も含めながら、まとめることを思いついた。私がここ数年で作成した資料からの抜粋である。*太文字が宗派内での出来事
1942年2月16日:女子の得度を許可する。
*ただし、「教師試験検定合格者に限る」という条件がついていたとされる。
1967年11月7日:国際連合第22回総会で、女性に対する差別撤廃宣言が採択される。
1975年:第1回世界女性会議がメキシコで開催される。
1979年12月18日:国際連合の第34回総会で、「女性差別撤廃条約」(女性に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条例)が採択される。
1983年:坊守会連盟から女性住職に関する要望書が宗務総長に提出される。
1985年6月24日:「女性差別撤廃条約」に批准する。
1986年12月:「真宗大谷派における女性差別を考えるおんなたちの会」が発足する。女性僧侶・坊守・女性宗務役員・学生らにより「真宗大谷派における女性差別を考える女たちの会」が結成される。
1990年:宗議会で女性住職就任を1年以内に実現する事が宗務総長より表明される。
1991年6月30日:「寺院教会条例」改正で寺格制度が撤廃される。同時に女性住職への道が開かれる
*ただし、条文には「男子である教師がいないときは」とあり、あくまでも男性が住職になるのが本来で、女性は男性の後継者がいない時の特例措置という位置づけになる事が後に問題視される。
1992年3月28日:初の女性住職が任命される。
1993年:国際連合が「女性に対する暴力撤廃宣言」を採択する。
1994年:「女性の宗門活動に関する委員会」が設置される。
*女性住職の道が条例により開かれたが、改正された条例が女性住職は特例措置と解釈される内容を持つもので、性差別問題を課題とする人たちから「平等な立場での女性住職の実現」を求める要望書が出されるなどがあり、それに応える形で委員会が設置される。
1.住職就任とそれに関する問題について
2.教導職等、女性の活動分野の促進について
3.女性の教化組織について
の3つの諮問事項が協議される。
1995年9月15日:中国北京で第4回世界女性会議・NGOとなる。フォーラムが閉幕する。行動綱領が採択され、「北京宣言」が発表される。
1996年1月25日:宗務審議会「女性の宗門活動に関する委員会」が答申「住職就任とそれに関する問題・教導職等、女性の活動分野の促進・女性の教化組織」
*「男子である教師がこれを継承する」という条文が「当該寺院又は教会に所属する教師がこれを継承する」と変更され、住職の後継に男女の差異を設けないことになりました。ただし、「卑属系統」という言葉は残り、住職の世襲制の問題は課題化されなかった事が後に指摘されている。
1996年6月20日:儀式指導研究所条例・女性室規定を公示する(7月1日施行)
1996年7月1日:「女性室」が設置される。
1996年12月12日:女性の宗門活動推進のための機関として組織部に「女性室」が開室される。
*?
2000年6月5日:国際連合特別総会(女性2000年会議)が開催される。
2005年7月1日:「解放運動推進本部職制」一部改正にともない、女性室の事務所管、解放運動推進本部に移管する。
2010年2月:「女性住職の集い」が初開催される。
以上。
宗派の内外の問題を列挙した。宗派内の記述は「女性僧侶・女性住職に関すること」である。宗派外の記述は女性の権利等に関することを中心にした。当然漏れていること、日時や内容が間違っていることがあると思われます(「女性室」の設置が7月なのか?12月なのか?ってことも当然含みます)。
女性初の宗議会議員・参議会議員に関する資料を目にしたことがないので、ご存じの方は教えていただけると助かります。
浄土真宗の宗名問題(宗名論争)
浄土真宗の宗名についての経過について、先日、twitterでつぶやいたものをまとめました。
基本的には、『宗名往復録』、『『宗名往復録』註解』(2008年安居次講講本、木場明志)、『近代大谷派年表』等の資料によるもので、間違いや記述していないことがあれば、ご指摘願います。
1774年(安永3年)に、東西本願寺が「浄土真宗」公称許可を江戸幕府にお願いします。当時の江戸幕府の寺社奉行松平忠順は、寛永寺と増上寺に可否を問い、増上寺が反対したことにより、許可がおりませんでした。
寛永寺は天台宗で、徳川家の祈願寺であったようです。3代将軍徳川家光は、天海に帰依し、寛永寺(天海)に自身の葬儀を行わせ、遺骨は初代将軍徳川家康の廟がある日光に移すように遺言したとされます。4代将軍徳川家綱、5代将軍徳川綱吉の廟は、上野(寛永寺)に営まれ、増上寺とともに徳川家の菩提寺となったのです。しかし、増上寺側の反発もあり、6代将軍徳川家宣の廟が増上寺に造営されて以降は、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いたとされております。つまり、寛永寺と増上寺は、徳川家の菩提寺という立ち位置(私からすると江戸時代の宗教顧問というイメージがあるが)から、「浄土真宗」の公称についての意見を述べたものと考えられます。
寛永寺(天台宗)は容認の立場であったようですが、増上寺(浄土宗鎮西義)は容認出来ないという立場であったようです。
増上寺の意見としては
1.浄土真宗は元来我が浄土宗であること
2.1428年(正長1年)に後小松天皇が金戒光明寺山門に「浄土真宗最初門」の勅額を下賜されている
等を理由として容認出来ないという立場です。「一向宗」を公称すべきである、ということです。
ちなみに、この前から、藩・地域によっては、「浄土真宗」を公称としていた地域もあったそうです(和歌山藩や信濃の周辺)。他には、1771年(明和8年)には、旗本久貝忠左衛門知行地の河内讃良・更野両郡で本願寺宗・浄土新宗の名称を浄土真宗と改める、ということがありました。
1775年(安永4年)には、江戸浅草御坊輪番が増上寺の『宗名故障書』を批判して江戸幕府に出します。
宗名は開祖の命名によるものであるから、法然上人は浄土宗(『選択集』など)を使い、以後聖光等の諸師も浄土宗を公称してきた、故に浄土真宗(『教行信証』など)の名は我が宗名である。
1272年(文永9年)に亀山天皇の綸旨には「親鸞聖人開浄土真宗」とあり、他の天皇も同じように「浄土真宗」と言っている。
ということが大筋の内容と言っていいかと思います。
増上寺側もこれに反発して、
1775年(安永4年)に増上寺が『真宗々名故障書』を再び江戸幕府に出します。
江戸浅草御坊輪番もこれに対して、
1776年(安永5年)に江戸浅草御坊輪番が宗名について江戸幕府寺社奉行に口上書を出します。
これ以降、真宗(浄土真宗)側は、1789年(寛政1年)まで、「浄土真宗」公称に向けて動きます。
1776年(安永4年)
・10代将軍徳川家治の日光社参に当り、道傍の真宗末寺が門札を「浄土真宗」に戻す。
・老中牧野越中守が江戸滞在中の真宗各派と浄土宗18檀林の者に宗名の件は即答できぬから、退去するよう通達する。
1777年(安永5年)
・本山が宗名について二条役所に答書を出す
・慶証寺玄智(西本願寺)が『浄土真宗御宗名異論顕真弁』を書く
・諸国末寺が宗名公称を本山に要請する
・門末に真宗名は審議中のため保留するよう通達する
・京都所司代が東西本願寺末寺の寺請状に従来「浄土真宗」と記したものも審議中は保留するように通達する
1778年(安永6年)
・浄土宗大光院単霊が『鸞徒顕偽弁』を書いて、真宗宗名願を批難する
1788年(天明8年)
・江戸光円寺宝景・宗恩寺大旭、宗名のことを老中松平定信に賀龍訴する(以後、徳本寺頓朗と共に数回直訴する)
・光円寺宝景らが再び寺社奉行牧野忠精に宗名の事を訴える
・光円寺宝景らが更に老中松平定信に訴える
1789年(寛政1年)
・江戸浅草御坊の輪番が宗名の件について寺社奉行に口上書を出す
・江戸築地御坊(西本願寺)の輪番が宗名の件について寺社奉行に口上書を出す
・江戸幕府が東本願寺に宗名は出願中として諒承するよう通達する
・光円寺宝景ら三人を処罰する
しかし、1789年(寛政1年)に、宗名問題について、寛永寺の輪王寺宮が仲裁を願い出て、「3万日」の間、寛永寺がこの問題を預かり議論する仲裁案を出し、関係者はみなこれに従うことになります。
1791年(寛政3年)にも江戸幕府が東西本願寺に宗名願は改めて通達するまで審議中と諒解するように通達する、ということが起っておりますから、1789年(寛政1年)の仲裁案以降も私の見た資料にはありませんが、「浄土真宗」公称に動いていたことが伺われます。
1811年(文化8年)には、京都二条所司代が東本願寺の『浄土真宗仮名聖教』開板願について、題名不穏便のため、従来の大号によって蔵板彫刻するよう通達する、ということが起こります。
1820(文政3年)には、光円寺宝景が『宗名諍論弁』を書きます。
江戸時代中には、「浄土真宗」公称に動いても、結局は認められない結果に終わっております。では、江戸時代が終わり、「浄土真宗」公称ができるようになったか?というとそうではありません。
1869年(明治2年)に京都府令により、「真宗」を「一向宗」と改称する、ということが起こります。このままではどうにもならないということで、同年に、宗名問題について真宗5派が東本願寺衆議所に会合をします。
この時の5派は、東本願寺、西本願寺、仏光寺派、木辺派、高田派です。なぜ5派なのか?というのにも理由があります。
「十派連合」という名称があるように「10派」があるのですが(現在は、もっとあるが)、興正派(興正寺)は1811年(明治9年)に江戸幕府が興正寺は西本願寺の末寺と裁断を下してから、1846年の独立までは末寺扱いであったもよう。
1665年(寛文5年)に毫攝寺(出雲路派)は青蓮院の末寺、専称寺(三門徒派)は妙法院の末寺となっている。1693年(元禄6年)に誠照寺(誠照寺派)は聖護院の院家、証誠寺(山元派)は輪王寺の院家となる。この理由としては、詳しく調べていないが、末寺の数が少ない場合は、一宗一派として認められなかったのではないか?という指摘があるが、検証はしていない。もし、この説が正しいとすれば、一宗一派として認められない中での寺院の存続をかけてもので末寺になることであり、院家となることであったのではないだろうか、と推測できるのではないでしょうか。
ちなみに木辺派(錦織寺)は、1668年(寛文8年)に浄土宗鎮西義と浄土真宗の兼学体制となる。後には、浄土宗鎮西義か?浄土真宗か?という問題が起こり、一応、1726年(享保11年)には決着をつけて、浄土真宗であるという立場ととっている。
このような流れで、1869年(明治2年)の段階では、真宗は5派だったようです。
1872年(明治5年)に、「一向宗」を「真宗」と公称することを許されます。西本願寺(本願寺派)は、1877(明治10年)に、現在の「浄土真宗本願寺派」という宗名を決定したと記憶しております。他の派は、そのまま「真宗」を宗名を用いたということです。
江戸時代に関しては、この時期に三業惑乱と大師号問題が絡んできます。
明治時代に関しては、この時期に大教院問題と興正寺の宗派独立が絡んできます。
このあたりとの関連も考えるべきでありましょうが、今回は、このあたりの事情は、ほぼ無視しました。
*また、西暦で書かれておりますが、和暦と西暦の変換の仕方が違えば、前後1年の違いが出る可能性があります。この理由によって、西暦と和暦の両方を記載しております。
エリザベス・キューブラー・ロスの「死の受容五段階説」
1.否認:自分が死ぬということが嘘ではないかと疑う段階
2.怒り:なぜ自分が死ななければならないのかと周囲に怒りを向ける段階
3.取引:死なずにすむように神と取引し、何かにすがろうとする段階
4.抑鬱:何もできなくなる段階
5.受容:最終的に自分が死ぬことを受け容れる段階