浄土真宗の宗名問題(宗名論争)

浄土真宗の宗名についての経過について、先日、twitterでつぶやいたものをまとめました。

基本的には、『宗名往復録』、『『宗名往復録』註解』(2008年安居次講講本、木場明志)、『近代大谷派年表』等の資料によるもので、間違いや記述していないことがあれば、ご指摘願います。

1774年(安永3年)に、東西本願寺が「浄土真宗」公称許可を江戸幕府にお願いします。当時の江戸幕府寺社奉行松平忠順は、寛永寺と増上寺に可否を問い、増上寺が反対したことにより、許可がおりませんでした。

寛永寺天台宗で、徳川家の祈願寺であったようです。3代将軍徳川家光は、天海に帰依し、寛永寺(天海)に自身の葬儀を行わせ、遺骨は初代将軍徳川家康の廟がある日光に移すように遺言したとされます。4代将軍徳川家綱、5代将軍徳川綱吉の廟は、上野(寛永寺)に営まれ、増上寺とともに徳川家の菩提寺となったのです。しかし、増上寺側の反発もあり、6代将軍徳川家宣の廟が増上寺に造営されて以降は、歴代将軍の墓所寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いたとされております。つまり、寛永寺と増上寺は、徳川家の菩提寺という立ち位置(私からすると江戸時代の宗教顧問というイメージがあるが)から、「浄土真宗」の公称についての意見を述べたものと考えられます。

寛永寺天台宗)は容認の立場であったようですが、増上寺(浄土宗鎮西義)は容認出来ないという立場であったようです。

増上寺の意見としては

1.浄土真宗は元来我が浄土宗であること

2.1428年(正長1年)に後小松天皇金戒光明寺山門に「浄土真宗最初門」の勅額を下賜されている

等を理由として容認出来ないという立場です。「一向宗」を公称すべきである、ということです。

ちなみに、この前から、藩・地域によっては、「浄土真宗」を公称としていた地域もあったそうです(和歌山藩信濃の周辺)。他には、1771年(明和8年)には、旗本久貝忠左衛門知行地の河内讃良・更野両郡で本願寺宗・浄土新宗の名称を浄土真宗と改める、ということがありました。

1775年(安永4年)には、江戸浅草御坊輪番が増上寺の『宗名故障書』を批判して江戸幕府に出します。

宗名は開祖の命名によるものであるから、法然上人は浄土宗(『選択集』など)を使い、以後聖光等の諸師も浄土宗を公称してきた、故に浄土真宗(『教行信証』など)の名は我が宗名である。

1272年(文永9年)に亀山天皇の綸旨には「親鸞聖人開浄土真宗」とあり、他の天皇も同じように「浄土真宗」と言っている。

ということが大筋の内容と言っていいかと思います。

 増上寺側もこれに反発して、

1775年(安永4年)に増上寺が『真宗々名故障書』を再び江戸幕府に出します。

 江戸浅草御坊輪番もこれに対して、

1776年(安永5年)に江戸浅草御坊輪番が宗名について江戸幕府寺社奉行に口上書を出します。

これ以降、真宗浄土真宗)側は、1789年(寛政1年)まで、「浄土真宗」公称に向けて動きます。

1776年(安永4年)

・10代将軍徳川家治の日光社参に当り、道傍の真宗末寺が門札を「浄土真宗」に戻す。

・老中牧野越中守が江戸滞在中の真宗各派と浄土宗18檀林の者に宗名の件は即答できぬから、退去するよう通達する。

1777年(安永5年)

・本山が宗名について二条役所に答書を出す

・慶証寺玄智(西本願寺)が『浄土真宗御宗名異論顕真弁』を書く

・諸国末寺が宗名公称を本山に要請する

・門末に真宗名は審議中のため保留するよう通達する

京都所司代が東西本願寺末寺の寺請状に従来「浄土真宗」と記したものも審議中は保留するように通達する

1778年(安永6年)

・浄土宗大光院単霊が『鸞徒顕偽弁』を書いて、真宗宗名願を批難する

1788年(天明8年)

・江戸光円寺宝景・宗恩寺大旭、宗名のことを老中松平定信に賀龍訴する(以後、徳本寺頓朗と共に数回直訴する)

・光円寺宝景らが再び寺社奉行牧野忠精に宗名の事を訴える

・光円寺宝景らが更に老中松平定信に訴える

1789年(寛政1年)

・江戸浅草御坊の輪番が宗名の件について寺社奉行に口上書を出す

・江戸築地御坊(西本願寺)の輪番が宗名の件について寺社奉行に口上書を出す

江戸幕府東本願寺に宗名は出願中として諒承するよう通達する

・光円寺宝景ら三人を処罰する

しかし、1789年(寛政1年)に、宗名問題について、寛永寺輪王寺宮が仲裁を願い出て、「3万日」の間、寛永寺がこの問題を預かり議論する仲裁案を出し、関係者はみなこれに従うことになります。

 1791年(寛政3年)にも江戸幕府が東西本願寺に宗名願は改めて通達するまで審議中と諒解するように通達する、ということが起っておりますから、1789年(寛政1年)の仲裁案以降も私の見た資料にはありませんが、「浄土真宗」公称に動いていたことが伺われます。

 1811年(文化8年)には、京都二条所司代東本願寺の『浄土真宗仮名聖教』開板願について、題名不穏便のため、従来の大号によって蔵板彫刻するよう通達する、ということが起こります。

 1820(文政3年)には、光円寺宝景が『宗名諍論弁』を書きます。

 江戸時代中には、「浄土真宗」公称に動いても、結局は認められない結果に終わっております。では、江戸時代が終わり、「浄土真宗」公称ができるようになったか?というとそうではありません。

 1869年(明治2年)に京都府令により、「真宗」を「一向宗」と改称する、ということが起こります。このままではどうにもならないということで、同年に、宗名問題について真宗5派が東本願寺衆議所に会合をします。

 この時の5派は、東本願寺西本願寺仏光寺派、木辺派、高田派です。なぜ5派なのか?というのにも理由があります。

 「十派連合」という名称があるように「10派」があるのですが(現在は、もっとあるが)、興正派(興正寺)は1811年(明治9年)に江戸幕府興正寺西本願寺の末寺と裁断を下してから、1846年の独立までは末寺扱いであったもよう。

1665年(寛文5年)に毫攝寺(出雲路派)は青蓮院の末寺、専称寺(三門徒派)は妙法院の末寺となっている。1693年(元禄6年)に誠照寺誠照寺派)は聖護院の院家、証誠寺(山元派)は輪王寺の院家となる。この理由としては、詳しく調べていないが、末寺の数が少ない場合は、一宗一派として認められなかったのではないか?という指摘があるが、検証はしていない。もし、この説が正しいとすれば、一宗一派として認められない中での寺院の存続をかけてもので末寺になることであり、院家となることであったのではないだろうか、と推測できるのではないでしょうか。

 ちなみに木辺派(錦織寺)は、1668年(寛文8年)に浄土宗鎮西義と浄土真宗の兼学体制となる。後には、浄土宗鎮西義か?浄土真宗か?という問題が起こり、一応、1726年(享保11年)には決着をつけて、浄土真宗であるという立場ととっている。

 このような流れで、1869年(明治2年)の段階では、真宗は5派だったようです。

 1872年(明治5年)に、「一向宗」を「真宗」と公称することを許されます。西本願寺本願寺派)は、1877(明治10年)に、現在の「浄土真宗本願寺派」という宗名を決定したと記憶しております。他の派は、そのまま「真宗」を宗名を用いたということです。

江戸時代に関しては、この時期に三業惑乱と大師号問題が絡んできます。

明治時代に関しては、この時期に大教院問題と興正寺の宗派独立が絡んできます。

このあたりとの関連も考えるべきでありましょうが、今回は、このあたりの事情は、ほぼ無視しました。

*また、西暦で書かれておりますが、和暦と西暦の変換の仕方が違えば、前後1年の違いが出る可能性があります。この理由によって、西暦と和暦の両方を記載しております。