清沢満之と高木顕明

 清沢満之さんと高木顕明さんは、ほぼ同時期に生きていたので、可能性はないとは言えないですよね。推測ということになりますが、清沢満之さんと高木顕明さんに接点があった、ということをお話されて(書かれて)いることは多いみたいですね。ご存知かもしれませんが、高木顕明さんとともに大逆事件で処罰された幸徳秋水さんがおられます。幸徳秋水さんは足尾銅山鉱毒事件の直訴状を田中正造さんからの依頼で執筆しました。この時期、幸徳秋水さんは、『万朝報』という新聞の記者でした。『万朝報』は、黒岩涙香さんが1892年に創刊したのが始まりです。この時は、発行所名は「朝報社」であったそうです。1897年には内村鑑三さんが英文欄主筆として『万朝報』の記者となりますが、1898年には退社します。内村鑑三さんは、退社後してすぐに『東京独立雑誌』を創刊します。ですが、1900年に再び内村鑑三さんが客員として『万朝報』に帰ってきます。1901年に内村鑑三さんが黒岩涙香(『万朝報』の創刊者)さんや幸徳秋水さんや堺利彦さんらと「理想団」を発足させます。「理想団」は社会問題を団員が協力して世論に訴えるという趣旨のもとに結成された団体である。しかし、内村鑑三は自己の内面を省察し聖書によって自己個人を改良するという立場であり、幸徳伝次郎や堺利彦安部磯雄らの社会改良主張を立場と衝突し、「理想団」の運動は自然消滅していきます。1903年6月30日に内村鑑三さんが『万朝報』で「戦争廃止論」を執筆します。内村鑑三さんは、突然に廃止論を言い出したわけではなく、『聖書之研究』で日露非開戦、戦争絶対反対を主張したいたことが指摘されております。しかし、1903年10月に『万朝報』が非戦論から開戦論に方向転換したことをきっかけに内村鑑三さんが退社します。もちろん、幸徳秋水さんや堺利彦さんも退社します。1903年11月に幸徳秋水さんや堺利彦さんを中心として『平民新聞』を創刊します。この新聞では、亡くなって半年近くが過ぎておりますが、清沢満之さんの追弔文を掲載しております(1903年6月6日に清沢満之さんは亡くなられております)。

 

 

『精神界』噫是れ清沢満之氏の遺業也。多く俗界に知られずして逝きたる宗教界のこの一人傑が、いかに清冽なる噴泉を社会の一隅に遺して、人心洗滌の用を為さしむかを思い、吾人は常に此の雑誌に対して敬愛の念を絶たざる者なり。

 

平民新聞

 

 

 このような文章が掲載されたことを考えると、幸徳秋水さんや堺利彦さんたちの立場(つまり、社会主義者、非戦論者の方々)から好意的に受け入れられていたように考えられます。また、幸徳秋水さんは、大逆事件の獄中で処刑を待っている中で「死生」という文章を書かれております。

 

 

不幸短命にして病死しても、正岡子規君や清沢満之君の如く、餓死しても伯夷や杜少陵の如く、凍死しても深艸少将の如く、溺死しても佐久間艦長の如く、焚死しても快川国師の如く、震死しても藤田東湖の如くならば、不自然の死も却って感嘆すべきではない歟

 

「死生」

 

 

 この文章の中で清沢満之さんの名前をあげております。この新聞の熱心な読者であり、幸徳秋水さんや堺利彦さんと交流があったのが高木顕明さんです。このようなところから、推測されますね。何か資料が見つかれば、面白いのですがね。

 清沢満之さんと高木顕明さんは共に尾張国(愛知県)の出身であり、同じ真宗大谷派の僧侶です。清沢満之さんは、単なる学者、つまり学問だけをしていたのではなかったのです。もちろん、学問をすることは非常に大切なことでありますが、学問にとどまらず、非常に活動的であったということです。例えば、宗門の改革運動(白川党運動)をして、宗門の改革をしようと運動もしております。同じ真宗大谷派の宗門内でこのような活動をしていたのですから、高木顕明さんも清沢満之さんの名前ぐらいは最低でも知っていたと推測できると思います。

 1910年から大逆事件により、高木顕明さんは逮捕されます。このことが雑誌『精神界』で触れられておりますが、逮捕者の中に大谷派の僧侶がいたという記述はないそうです(原文の確認はしておりません)。この頃は、清沢満之さんが亡くなっており、暁烏敏さんが編集の中心にいたと推測されます。

 高木顕明さんは、新門の名で公表された御消息や南條文雄さんや暁烏敏さんの戦争へ加担するような発言や文書に対しても批判をしていっていたそうです。例えば、南條文雄さんに対してのものとしては、『余が社会主義』で

 

余は南條博士の死るは極楽ヤッツケロの演説を両三回も聞た。あれは敵害心を奮起したのであろーか。哀れの感じが起るではないか。

 

『余が社会主義

 

と批判されております。高木顕明さんにとっては、「南無阿弥陀仏」は「戦争の掛け声」ではなく

 

詮ずる処ハ南無阿弥陀仏には、平等の救済の幸福や平和や安慰やを意味して居ると思ふ

 

『余が社会主義

 

と言われます。

 また、『余が社会主義』の中では、新門の名で公表された御消息で、宗祖の御消息を戦争に加担する意図で抜粋して用いていることに対しての批判もあります。

 このような形で戦争反対をしていったのが高木顕明さんでした。まだまだ私も勉強不足で間違い等があるかとは思います。ご指摘いただければありがたいことと存じます。

 

主な参考書

山本伸裕『他力の思想』

加藤智見『いかにして「信」を得るか』